雑文の記事一覧

名前三題

以下、とりとめもなく。

一、花の名前―特養の場合

先日お伺いしたとある特養(特別養護老人ホーム)。

ホールに飾られた綺麗な花。

近寄ってみると、そこには、「○色・・・○○○(花の名前)」「△色・・・△△△(花の名前)」と、色ごとに花の名前を紹介する手書きの札が。

「これは会話のきっかけになるなあ」と感じた次第です。 

こちらの特養では、意思疎通の難しい方も含めて、ほぼ全員の方の聞き取り調査をご希望なさいました(多くの場合ですと、意思相通が容易な方に絞って調査を行います)。

実際に聞き取りを行った評価者によると、ベッドに横になったまま、起き上がることができない状態でも、利用者さんは「ここの皆さんは本当によくやってくれます」と笑顔で仰っていたそうです。 

「利用者本位」とはよく耳にする言葉ですが、相手に対する気遣い、一人ひとりを大切に思う気持ちは、直接的な援助のみならず、ホールに飾られた花のような些細な場面でも顔を見せてくれます。 

二、木の名前―保育園の場合

平成21年度に担当させて頂いた杉並区立のとある保育園。

実はご近所さんでして、時々散歩中に園庭の様子などをのぞいてしまいます。

先日のぞいてみますと、園庭の木々に札が。

よく見ると、「そめいよしの  ぴんくいろのかわいいはながさくよ  ○○(名前)」「シュロ ほそながいはっぱでおもしろいよ  △△(名前)」と、子どもの字で説明書きが。

どのようなきっかけがあったのか、想像するしかありませんが、そばにあるだけではただの木であったものが、名前を知り、特徴を言葉にすることで、子どもにとってより身近な存在に、あるいは、「僕の木」「私の木」というふうに愛着の対象になっているかもしれません。

三、自分の名前―保育園の場合

平成23年度に担当させて頂いた品川区立のとある保育園。

下駄箱に書かれた子どもの名前は、めずらしくも漢字表記。

園長:「反対もあったのですが、どうしてもしたくて・・・」

園長経験者の評価者:「子どもというのは、身近にあれば、外国語であろうが漢字であろうが、覚えるものです。」

ちなみに私の感想:漢字で名づけられた子どもの名前を本来の漢字で表記すると、平仮名で名づけられた子どもの名前の個性が光る! 

厳密には、漢字の名前の個性も光るわけですが、多くの漢字の中に平仮名があると、目立つのでした。

以上、とりとめもなく。こんな時もあります。

「当たり前」を疑う

とある酒場での一風景。

お客からの注文を厨房スタッフに通す店長。

店長:「○○くん、カルピスサワー、濃い目で」

スタッフ:「濃い目って、カルピスの原液をですか?」

店長:「子どもか!(笑)」

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いいぞスタッフ!すばらしい視点だ!

カルピス濃い目で頼む人はたぶんいないだろうけど。

※酒場で「濃い目」というと、「焼酎濃い目」を意味します。

怒る、嘆く、その前に

○人にダメ出ししたものの・・・ 

「結婚に対するレインの考え方は、いささか、たるんでるぞ。実際、下流階級が我々に手本を示さないとすれば、一体、彼らは何の役に立つというんだ。どうやら彼らには、一つの階級として、まるで道徳的な責任感がないようだ。」 

これは、オスカー・ワイルドの喜劇『真面目が肝心』の中で、召使である「レイン」のだらしなさにあきれた主人公が口にするセリフです。

さて、何故ワイルドは、下流階級に道徳的な責任感(立派な立ち居振る舞いを見せる責任)を求めるようなセリフを、上流階級の主人公に言わせたのでしょうか。

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そもそも、①「上流階級は、下流階級に対して、模範を示す責任がある」と、ワイルドは考えます。

それはおそらく、②「下流階級は、上流階級の言動を真似るから」でしょう。

ということは、③「下流階級の言動がだらしがないのは、上流階級の言動がだらしがないから」ということになります。

つまり、ワイルドは、下流階級のだらしなさを上流階級の主人公に嘆かせることを通じて、実は、上流階級のだらしなさ、「道徳的な責任感」の欠如を皮肉っているわけです。

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上下の関係を、階級としてではなく、組織内の関係としてみると、この一節、現在でもなかなか示唆に富みます。相互に影響し合うことを考えれば、対等な人間関係であっても、そうかもしれません。

課題の指摘、その作法

○紹介の仕方、され方 

三谷さん(仮名)は30代男性。

時々飲み過ぎて自転車で転倒。ひどい時は一晩に2度転倒。朝起きて頭にかさぶたを発見することもある。だが、仕事はそこそこ頑張っている様子。 

さて、そんな彼、既婚者と間違われることもあるが、実は独身。 

 

こんな人物が知り合いにいたら、どのように紹介しますか。 

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 「・・・が出来ていない」「・・・するには至っていない」などと書かれている報告書を時々見かけます。 

例えば、

・個人別の育成計画については、作成できていない

・マニュアル化するには至っていない

などなど。

 

そんな時、私は心の中で叫びます(評価機関内では一層の発信・浸透が必要です、すなわち、わたくしたちの課題です)。

「やめてくれ~」

「やっていないことは書かないでくれ~」

「どうしても書きたい時は、書き方をもう少し考えてくれ~」

 

このあたり、少しばかり説明が必要かもしれません。

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○根拠を確認する

何かを「行っていない」という事実があったとします。

大切なのは、「行っていない」という事実に、根拠があるか否か、ということです。

つまり、理念に基づいて「必要ない」という判断のもとに「行っていない」場合、原則、指摘する余地はなくなります。

では、指摘する必要があるのはどんなケースでしょうか。

それは、「行っていないこと」が、「行うべきこと」であると、理念から導くことが出来る場合です。

すなわち、

「行っていないこと」

理念に照らし合わせて、必要ではあるが、「現状では出来ていないこと」

「今後、行っていくべきこと」

という場合です。

また、理念とは、事業者さんが大切にしている考えですので、

理念から導くことが出来る=潜在的に必要としている、求めている

と解釈できます。

そうすると、

「行っていないこと」「今後、行っていきたいこと」

と捉え直すことも出来ます。

 

従って、「行っていない」という事実に何らかの意味を与える際には、必要だが「出来ていないこと」なのか、根拠があって「行っていないこと」なのか、確認する必要があります。

○表現方法を考える 

そして、さらに大切になってくるのは、指摘する際の方法です。

もし、「行っていないこと」を

「・・・が出来ていない」

と表現してしまうと、なんとも後ろ向きで、未来への展望が見えません。

 

さきほど、理念に照らし合わせて、必要ではあるが「行っていないこと」とは、

「今後、行っていくべきこと」であり、「今後、行っていきたいこと」である、

と述べました。

「今後、・・・」とある通り、課題とは、視点を前に据えるもの、未来への展望を示すものです。

これを踏まえると、

「・・・が出来ていない」

ではなく、

「・・・していくことを課題としている」

「・・・したいと考えている」

「・・・していく方針である」

などとするほうが、将来に対する積極性という、課題の持つ前向きな性格がより良く表現されます。

言い換えれば、その事業所が今後どこに向かって歩んでいこうとしているのか、積極的な姿勢と合わせて、向かうべき方向性がより伝わりやすくなります。

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もし、身近に三谷さん(仮名)30代男性のような人がいたら、「結婚できていない人」「結婚するには至っていない人」などと言うのは、やめてあげて下さい。

ひょっとしたら、「今後、結婚したいと考えている人」かもしれません。

「あそび」がありますか

ism(イズム、主義)という語がつくと、多くの言葉が(多くの場合悪い意味で)変質してしまいます。

例えば、 

「お気に入りの」を意味するfavorite(フェイバリット)。

これにismがつくと、 

favoritism(フェイバリティズム) 。

意味はなんと、 

「偏愛」、「えこひいき」 。

気持ちは分かりますが、これは困りものです。 

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さて、毎年多くの事業者様との出会いがあります。どの事業者様にも満足して頂けるように関わらせて頂いていますが、そんな中でも、えいこひいきではありませんが、どうしても強い思い入れを抱いてしまう場合があります。 

フロアごとの稼働率の管理を始め、きわめて合理的な運営をなさっているとある高齢者施設。その23年度の事業計画のテーマは、「笑い」でした。 

合理的な運営に意識して非合理的な要素を取り入れるあたり、私は大好きです(えこひいきではありません)。 

そこには、rational(ラショナル、合理的な)がrationalism(ラショナリズム、合理主義)に陥らない工夫があります。

合理的なもので詰めていくと、必ず息苦しくなります。そこに非合理的な要素が入ることで、ゆとりが生まれ、途端に心がフッと軽くなります。 

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ところで、allowance(アロウワンス) という単語があります。 

allow(アロウ) で「許す」「許可する」ですから、allowance で「許可」です。 

が、allowanceが意味するところは、それだけにとどまりません。 

まず、「ゆとり」-「これくらいまでなら許容範囲ですよ」という意味です。納期の厳守が時々危うくなることのある私にとって、とてもありがたい意味です。

次に、「こづかい」-このあたりから、この単語、少々面白い面を見せてくれます。確かに、こづかいがない、あるいは十分でない生活、キツいですね。よく分かります。 

さらに、「あそび」-これは、外あそびの「あそび」ではなく、例えば、はさみの二枚の刃をつなぐ金具がありますが、あれはギュウギュウに締めてしまうと、二枚の刃は動きません。少しばかりゆるく締めてこそ、つまり、「あそび」を残しておいてこそ、はさみとして機能します。この「あそび」の意です。 

「あそび」のある組織、伸び伸びできて良いですね。 

ちなみに、make an allowanceで「大目に見る」だそうです。 昨年度は、訳あって納期を限界まで延ばして頂き、しかも、そんな状況に至ってしまった私を、多くの事業者様が大目に見て下さいました(感謝感謝です)。

皆さん、allowanceの威力、見直してみませんか。

心にも、少しばかりのゆとりが生まれるかもしれません。 

たとえこづかいが少なくても。

「考えること」-3

○さらに「考えること」は続く 

ここまでの話をまとめてみます。

1)仕事の流れ、手順、方法など、仕組みが確立されていると、一つひとつ立ち止まって考えるという作業を省くことができる=効率的・円滑に仕事を進めることができる。

2)ただし、「一つひとつ立ち止まって考えるという作業を省く」がゆえに、「行っていること」自体が目的化する恐れもある。

3)ゆえに、「行っていること」のねらいや根拠について改めて考えることが必要になってくる。

 「一つひとつ立ち止まって考える」という作業を省いても、結局、「改めて考える」必要からは、逃れることができない―「考えること」というのは、人であれ組織であれ、健全な成長・発展には欠かせないもののようです。

さて、至極当たり前の話をわざわざ展開してきましたが、順当な論理展開としては、ここで話を終わらせるべきかと思われます。

ただ、今回ご紹介した祝辞には、実はもっと注目すべき指摘が含まれています。

ということで、ここはひとまず、収まりの良い論理展開としていったん終わりにしますが、今後も引き続き(不定期ではありますが)、別の意味で「考えること」について話を進めてまいります。

「考えること」-2

○仕組みが確立している、ゆえに、必要なこと

仕組みが確立している組織では、大きな部分では悩む余地が格段に少なくなります。さらに、これにより職員さんは、もっと別の部分に気を遣い、頭を使うことが出来ます。これは、一つの理想的な組織運営だと思われます。 

ただ、仕組みが確立しているがゆえの、課題もあります(この点は、これら優れた仕組みを持つ区立保育園の主管課の方にも申し上げた点です)。 

仕組みの確立に携わった方々は、その作業を通じて、日々の業務がどのようなねらいに基づいて行われているのか、身をもって分かっています。ゆえに、常にねらいや目的に立ち返ることができます。 

これとは反対に、その組織の一員となった時には、すでに仕組みが確立されていた場合は、自分が行っていること、自分が関わっていることが、一体どのようなことを目指して始められたものなのか、意識的に振り返る必要が出てきます。

つまり、仕組みが高い水準で確立されていればいるほど、「考える」という作業が、実は必要になってくるのです。 

なぜなら、それを怠ると、当初の「ねらい」から解き放たれて、当初の目的が見失われ形ばかりが残る、仕組みの形骸化が始まってしまうからです。

ここまできて、やっと今回ご紹介した、立教大学総長による祝辞という名の名文に触れることができます。

(しかし、)マックス・ウェーバーが指摘したように、社会的な諸制度は次第に硬直化し自己目的化していきます。人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。 

ここで、「自己目的化」というのは、ある目的を実現するために制度を運用し始めたにも関わらず、時を経て、制度を運用すること自体が目的となっていくことだと思われます。 

つまり、制度の健全な運用のためには、現状の批判的な検討、というと少し大袈裟ですが、ひらたく言えば、振り返りが必要である、ということです。 

改めて、上記引用文の後段のみ引用します。

人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。                      ※下線は引用者

この指摘を、健全な組織運営の文脈で次のように言い換えても、あまり無理はなさそうです。 

組織が健全に機能し存続するためには、理念や目標、ねらいなどを根本から考え直し、現在行っていること改めて根拠付ける機会を持つ必要があります。

つまり、ある組織が、その組織の目指すものの実現に向けて機能し続けるためには、常に原点に立ち返り、現状を振り返るという意味で、「考える」という営みが不可欠なのです。

「考えること」-1

○仕組みが確立している、ということ

ある区の公立認可保育園(複数)では、園運営・保育実践を支える一貫したシステムが確立されていました。品質管理の手法を中心とするそのシステムは、それはそれは高い水準の、見事な取り組みでありました。

これには、様々な利点があります。 

その一つは、

 「園長が変わっても、変化の幅が大きくない」

つまり、組織が個人プレーの集合体ではない=保育実践の一つひとつがすべて組織的な取り組みであるがゆえに、安定的に、また、継続的に、園運営が行われているということです。

当然、新園長によるカラーは出ます。しかし、誰が園長であるかによって大幅に状況が異なるわけではありません。急に業務水準が上下することもありません。各園共通の仕組みの上に、園長「らしさ」や「味」が加わります。

預ける立場にとっては、大きな安心材料だと思います。

これとは反対に、強固な仕組みが確立していないと、同じ公立認可保育園であっても、見事に凸凹の様相を呈します。

このことは、働く立場の方にも影響します。

つまり、

「仕組みが確立していない=園長の交代で変化が大きい=人の判断に任されている部分が大きい=職員の負担が大きい」

ということになります。

「仕組みが確立していること」は、「働きやすさ」にとって、とても大切な条件です。これは、次のように説明することができます。

人間が生まれるのは、真っ新な紙の上ではありません。人々の営みの蓄積の上に成り立っている社会、挨拶をはじめとする人との関わり方などが慣習として確立された社会に誕生します。そのお蔭で、私たちは、例えば、「人に会った時には、どのように振る舞ったらよいのか」などと、根本的な部分から悩む必要はありません。すでに、「挨拶」というコミュニケーション方法が空気のようにあるのですから。

これと同様に、働く立場からすれば、「何を行うべきなのか」ということが確立されていれば、一つひとつの場面で一から考える必要がありません。確立された方式を信頼し、それにしたがって行動すればよいのです。

「考えること」-0

遅くなりましたが、昨年度お世話になった事業者の皆様、ありがとうございました。

今年度ご縁を賜る(かもしれない)事業者の皆様、どうぞよろしくお願いいたします。

さて、非常に素晴らしい文章に出会ったので、紹介させて頂きます。

立教大学大学院の学位授与式における総長による祝辞です。

http://www.rikkyo.ac.jp/aboutus/philosophy/president/conferment/

テーマは、学問の府としての大学の役割ですが、事業運営にとっても示唆に富む内容です。

反知性的な風潮の中、一服の清涼剤にもなりえます。

近日中に、上記文章を少しばかり読み解いた記事を追加いたします。