保育の記事一覧

発想の転換

子どもがいたずらをしているのを目にし、思わず「こらっ」「ダメッ」と言ってしまう気持ち…なんとなく理解できます。 

ところが、こんな人も(我が友人です)。 

「どうしてもイラっとしちゃったりすることもあって、でもそのときにシャッターを押したりすると、気持ちも落ち着くし、むしろすっきりするっていうか。」 

怒る気持ちを抑えて写真を撮る→いたずら写真が成長の記録に化ける 

お見事!

「絵の本質は額縁にある」

○制服と個性

たしか私が中学生の頃、「制服は人権侵害だ」と国連にまで訴えに行った日本人学生がニュースになっていました。そんな学生の主張に対し、応対した方の返答がふるっています。曰く、「着る服があるなんて幸せなことじゃないか」

これはとても極端な例ですが、「制服は個性の否定だ」と考える人、まだいるのでしょうか。

確かに制服は、一定のルールを皆に課すという意味で、少々抑制的な面はあるかもしれません。

ちなみに私の場合、小中高とずっと制服着用でした。小学校は良いとして、高校の時はブレザー、これもまあ悪くありません。嫌だったのが、中学校時代の学ラン。田舎育ちの少年、思春期には異性の目を意識し始め、そしてオシャレに目覚める。しかし、身にまとっているのは学ラン。どうあがいても学ランは学ラン。ダサいことを理由に、制服を呪ったものです。

ところが、オシャレな人というのはいるもので。私服でもオシャレだった我が友人は、制服であっても、どことなくセンスを感じさせる着こなしでした。本当にセンスのある人というのは、制約があったとしても十分にその個性がにじみ出ます。

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○制限と自由

センスや「らしさ」、個性などがその魅力を十分に発揮するための条件とは、いったい何なのでしょうか。19世紀後半から20世紀前半のイギリスを生きたある批評家は言います。 

芸術とは限定である。絵の本質は額縁にある。キリンを描く時は、ぜひとも首を長く描かねばならぬ。もし勇気ある芸術家の特権を行使して、首の短いキリンを描くのは自由だと主張するならば、つまりはキリンを描く自由がないことを発見するだろう。

―G.K.チェスタトン、安西徹雄訳『正統とはなにか』春秋社、1995年、62頁

額縁=外枠=制限こそが、絵を絵たらしめる。「キリンの首は長い」という事実=キリンを描く上での制約こそが、キリンを描くことを可能にする。つまり、一定の制限・制約こそが、自由の行使を可能にしてくれる、ということが分かります。

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公立認可保育園が話題になる際、残念ながら、「公立だから…」という言葉を時々耳にします。「どこも一緒」「やりたいことが出来なくて、先生方は気の毒」…。

色々と制約があって大変なのはある程度事実でしょうが、これまでに、個性を遺憾なく発揮しているたくさんの公立認可保育園に出会ってきました。あの区の、あの園やあの園長先生などなど。今後随時、可能な範囲で紹介していきたいと思います。