2012年06月の記事一覧

「絵の本質は額縁にある」

○制服と個性

たしか私が中学生の頃、「制服は人権侵害だ」と国連にまで訴えに行った日本人学生がニュースになっていました。そんな学生の主張に対し、応対した方の返答がふるっています。曰く、「着る服があるなんて幸せなことじゃないか」

これはとても極端な例ですが、「制服は個性の否定だ」と考える人、まだいるのでしょうか。

確かに制服は、一定のルールを皆に課すという意味で、少々抑制的な面はあるかもしれません。

ちなみに私の場合、小中高とずっと制服着用でした。小学校は良いとして、高校の時はブレザー、これもまあ悪くありません。嫌だったのが、中学校時代の学ラン。田舎育ちの少年、思春期には異性の目を意識し始め、そしてオシャレに目覚める。しかし、身にまとっているのは学ラン。どうあがいても学ランは学ラン。ダサいことを理由に、制服を呪ったものです。

ところが、オシャレな人というのはいるもので。私服でもオシャレだった我が友人は、制服であっても、どことなくセンスを感じさせる着こなしでした。本当にセンスのある人というのは、制約があったとしても十分にその個性がにじみ出ます。

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○制限と自由

センスや「らしさ」、個性などがその魅力を十分に発揮するための条件とは、いったい何なのでしょうか。19世紀後半から20世紀前半のイギリスを生きたある批評家は言います。 

芸術とは限定である。絵の本質は額縁にある。キリンを描く時は、ぜひとも首を長く描かねばならぬ。もし勇気ある芸術家の特権を行使して、首の短いキリンを描くのは自由だと主張するならば、つまりはキリンを描く自由がないことを発見するだろう。

―G.K.チェスタトン、安西徹雄訳『正統とはなにか』春秋社、1995年、62頁

額縁=外枠=制限こそが、絵を絵たらしめる。「キリンの首は長い」という事実=キリンを描く上での制約こそが、キリンを描くことを可能にする。つまり、一定の制限・制約こそが、自由の行使を可能にしてくれる、ということが分かります。

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公立認可保育園が話題になる際、残念ながら、「公立だから…」という言葉を時々耳にします。「どこも一緒」「やりたいことが出来なくて、先生方は気の毒」…。

色々と制約があって大変なのはある程度事実でしょうが、これまでに、個性を遺憾なく発揮しているたくさんの公立認可保育園に出会ってきました。あの区の、あの園やあの園長先生などなど。今後随時、可能な範囲で紹介していきたいと思います。

「待つわ」

昔振られた異性から「もう一度会いたい」と言われたら、どうしますか。

家庭がある方なら、問答無用でNoでしょう。どうかそうであって下さい。

独り身の人間であれば、若干の逡巡があるかないか、ないかな、いや、場合によるか、、、いや、でも、、、と、こういうふうに悩むことをふつう「逡巡する」と言うのかと、今気づく私。

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評価のご依頼を頂く際には、お問い合わせ、見積もり作成や資料送付のご依頼など、いくつかの段階があります。中でも、「では、お話を聞かせて下さい」と言われると、喜んで事業者様のところにお伺いいたします。ありがたいことに、これまでのところそういったケースでは、おおむね、正式なご依頼を頂いています。

とはいえ、やはり「振られてしまう」場合もあります。そんな時は、「どこがダメでしたか」などと、そんな野暮なことはお聞きしません。「縁がなかったんだ…」と、気分を切り替えます。引きずりません。仕事ですから。

つい先日、昨年度振られた事業者様から、お問い合わせ+正式なご依頼を頂きました。本当にありがたく思います。お問い合わせを頂いた後にお伺いした際、事業者様は「来てくれないかと思った(笑)」と仰いました。何の逡巡もありません。仕事ですから。

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というわけで、以前お問い合わせ頂いてそれっきりになってしまった事業者の皆様、「もう一度会いたい」と言われれば、どこまでも飛んでいきます。再度のお問い合わせ、お待ちしております

以上、またまた営業活動でした。

ご利用は適正に

当社の代表は、以前、「良く生きる」がモットーの某企業で法務コンプライアンスを担当しておりました。その代表氏、個人情報保護がテーマの研修では、「大事なのは利用と保護のバランスです」と常々申しております。わたくしなりに、その趣旨を噛み砕いてみたいと思います。

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ずいぶん前の話になりますが、防衛大臣に任命されたある政治家が、「私は安全保障の素人だが、これが本当のシビリアンコントロールだ」と発言し、少々騒がれました。

この発言自体は、ほとんど論ずる気を起こさせません。ただ、発言をめぐる弁明・擁護・批判に触れるにつけ、「『コントロール』の意味を分かってくれ~」との感を強くしたものです。というのも…。

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防衛力というのは、適切な利用を可能にしておくこと=不適切な利用を禁じておくことが、大切です。いざという時には適切に行使しうるようにしておくと同時に、「いざという時」以外は行使できないようにしておく。つまり、行使・不行使の判断が、ルールに基づく適切なものであること。さらに、行使する場合も、ルールに則って行われるということ…というふうに、実際に用いる場合でも、用いない場合でも、常にルール基づく(文民の)政治家の判断の下にある、ということが大切なのです。

防衛の話に抵抗感があれば、乗馬の場合で考えてみましょう。馬に乗る際は、馬のお尻をペンペン叩いて走らせると同時に、手綱を引いて「ど~ど~」などといいながらスピードを緩めたり止めたりします(たぶん。表現が稚拙ですみません)。馬は、乗る以上は走らせないとお話になりませんし、必要な時にはいつでも止められる状態にしておかないと、安心して走らせることも出来ません。

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control(コントロール)が意味するところ、「支配」や「統制」ばかりではありません。「監督」や「制御」、「自制」、traffic control(トラフィック・コントロール)に至っては「交通整理」です。これが「交通統制」だと、なんだか走ってはいけないような印象を受けます。スムーズな交通を目的とした制御―それが、「交通整理」です。

日本語にも「御(ぎょ)する」という言葉があります。その意味は、(1)馬を自由に操る、(2)人を思いのままに動かす、(3)治める。(1)馬をぎこちなく走らせる、(2)人の一挙手一投足に至るまで指図する…わけではありません。ましてや、(3)生活を統制して自由を抑圧することではありません。節度ある自由のために管理がある、それが治めることであり、統治なのでしょう。

結局、コントロール下に置く=御するという行為には、必要に応じて適切に制御しつつ、何かを上手く(巧く・伸び伸びと・適切に)使うということが含意されているわけです。

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個人情報も、おそらく、利用と保護の上に、適切な管理があるのでしょう。節度なき利用は保護を危うくし、際限なき保護は利用を阻みます(=業務を滞らせます)。利用と保護とのバランスを図る=適正な利用と厳格な保護とを実現する、適切な管理こそが求められるわけです。

お声がけ頂ければ

都の評価推進機構から認証を受けている私どもにとって、評価という仕事の舞台は、都内全域です。評価事業=多くの事業者様とのご縁を通じて、様々な土地に初めてお伺いする、という貴重な経験をさせて頂くこと、たびたびです。
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さて、インターネット上には様々な情報が溢れていますが、時々、素敵な記事や特集に出会うことがあります。 

例えば、ある新聞社のホームページ内に設けられた「奥多摩だより」という一コーナー。ここには、奥多摩町やあきる野市、青梅市、檜原(ひのはら)村など、奥多摩地域の美しい風景を収めた写真が沢山掲載されています。

都内にもこのような奇跡のような空間が保たれているんですね。そこで生活する方々の穏やかな人柄、豊かな人間性を、勝手に想像しています。

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ん~、なんとか、評価のいう仕事が、私を奥多摩に連れて行ってはくれないものでしょうか。

というわけで、奥多摩の事業者の皆さ~ん、お声がけお待ちしております! 

以上、営業活動でした。

心を掃除する

助言、指導、注意、エトセトラエトセトラ。これらが人の心に届くには、一つには言い方(表現方法)、もう一つには受け手の心理が鍵となります。今日は、組織内で助言、指導、注意などを受ける立場の方々へのお話。

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①まずは、 シェイクスピア作品の翻訳で名高いある劇作家の言葉を。

子どもというのは、一般に、『自分はもう子どもではない』と言う時、もっとも子どもらしさを発揮するものです」

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②次に、何かのイベントで日本人の学者・評論家数人がヨーロッパに講演旅行に行った時のお話。講演を聴くのは、ヨーロッパの政治家やジャーナリストたち。

A(ドイツ文学者)は、ヨーロッパ批判を延々と展開。

B(思想家)は、ヨーロッパの思想・哲学の歴史への敬意を表明。

C(現在政治家)は、Aを「ナショナリスティック」、Bを「西欧コンプレックス」と批判。

そこでB、ヨーロッパ人の聴衆に向かって一言。

「ところで皆さん、コンプレックスを公にすることは、果たして、コンプレックスと言えるのでしょうか

ニヤリとする聴衆。

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①は、「一人前でありたい」という希望=「成熟していない」という現状が、露わになる瞬間です。私も言った憶えがあります。幼かった~。

②はいかがでしょうか。劣等感を抑え続けること自体が、劣等感の発露そのものということでしょうか。反対に、劣等感を自覚し、公にすると、②の体験者の言葉を借りれば、「偏狭な自己から解放される」わけです。なるほど。

精神・心理の面からの分析もあると思いますが、ここでは言葉の動きに着目して整理してみます。 

・未熟な部分や劣等感を隠す=内面を閉ざす=コミュニケーションの経路が遮断される=他者の言葉が入ってこなくなる=言葉が循環しなくなる=コミュニケーションが行われなくなる=自己の殻に閉じこもる

・未熟な部分や劣等感を公にする=内面を外に出す=コミュニケーションの経路が準備される=他者の言葉が入ってくる=言葉が循環する=コミュニケーションが行われる=自己が外に対して常に開かれる

精神の引きこもりは、自己を窒息させます。他者の言葉という新鮮な空気が還流することで、ゴミ同然の妙なプライドはきれいに掃除されます。

物と心

「断捨離(だんしゃり)」という片付け術、すでにご存じの方もいらっしゃると思います。話題になった時期を考えると、かなり乗り遅れた感がありますが、普遍的な面白さを持つ考え方ですので、この場を借りて少々触れてみます。

「断捨離」-これは、やましたひでこさんの提唱する生活の術で、「モノへの執着を捨てて、身の周りをキレイにするだけでなく、心もストレスから解放されてスッキリする」ことを目的とします。

提唱者のやましたさん、「クラター・コンサルタント」を名乗っておられます。ご本人の説明を踏まえつつ、「クラター」という単語の意味を見てみます。

clutter(クラター) 

1.散乱したもの

2.ごちゃごちゃ・散らかった様子

3. (心や頭の)混乱

やましたさんご自身は、物や心の中の「ガラクタ」という言い方をなさっています。そのお考えを、以下、大雑把に要約してみます。

・見えないままのガラクタ(心の混乱)は、見えるガラクタ(物の散乱・不要な物の集積)として表れる。

・本来暮らしを豊かにしてくれるはずの物を、苦になる対象にしてしまうのは、「心のありよう」「思考の癖」(=「もったいない」)。

・人をもてなす時に片付け、掃除するように、自分をもてなそう=これ以上自分を傷つけるのはやめよう。

・人との関係とは、「出会う嬉しさ、ともにいる喜び、別れのつらさ」。人は離れていってくれるが、物は自分が手を下さないと離れてくれない。従って、物を持つ=「最後の始末まで、感情的な部分(別れのつらさ)まで含めて受け入れる」ことであることを理解しよう。

・「今」と「自分」を軸に考える。すなわち、(物を手にした時を基準にするのではなく)今、(他人にとってではなく)自分は、その物と相応しい関係にあるかを考え、必要な物を絞り込み、不要な物を手放していく。

・「今」「自分」という軸のブレを修正していくプロセスとは、自分に素直になっていくプロセス。

・物を主役にしてきたために、いかに自分を大切にしてこなかったか、そこに気づき、自分を軸に考える視点を取り戻すことが大切。

いやはや、薄々感じてはいましたが、ここまで簡潔明瞭に言われてしまうと、見事と言うほかありません。

以前実習で、「清掃支援」の名目でとあるグループホームのお部屋にお邪魔した際、その“なかなかの状態”を目の当たりにし、軽いショックを受けたことがあります(さすがにその日は、帰宅後慌てて部屋を片付けました)。物の状態とは心の状態を反映したもの―結構当たっているかもしれません。

ところでこの「断捨離」、無料のメルマガがあるのですが、実はこれ、毎日届きます。日に日にたまっていく大量の未読メール。「ため込まない」がコンセプトの一つである片付け術のメルマガをため込んでしまい、早速その処理に困っている、情けない私でした。

名前三題

以下、とりとめもなく。

一、花の名前―特養の場合

先日お伺いしたとある特養(特別養護老人ホーム)。

ホールに飾られた綺麗な花。

近寄ってみると、そこには、「○色・・・○○○(花の名前)」「△色・・・△△△(花の名前)」と、色ごとに花の名前を紹介する手書きの札が。

「これは会話のきっかけになるなあ」と感じた次第です。 

こちらの特養では、意思疎通の難しい方も含めて、ほぼ全員の方の聞き取り調査をご希望なさいました(多くの場合ですと、意思相通が容易な方に絞って調査を行います)。

実際に聞き取りを行った評価者によると、ベッドに横になったまま、起き上がることができない状態でも、利用者さんは「ここの皆さんは本当によくやってくれます」と笑顔で仰っていたそうです。 

「利用者本位」とはよく耳にする言葉ですが、相手に対する気遣い、一人ひとりを大切に思う気持ちは、直接的な援助のみならず、ホールに飾られた花のような些細な場面でも顔を見せてくれます。 

二、木の名前―保育園の場合

平成21年度に担当させて頂いた杉並区立のとある保育園。

実はご近所さんでして、時々散歩中に園庭の様子などをのぞいてしまいます。

先日のぞいてみますと、園庭の木々に札が。

よく見ると、「そめいよしの  ぴんくいろのかわいいはながさくよ  ○○(名前)」「シュロ ほそながいはっぱでおもしろいよ  △△(名前)」と、子どもの字で説明書きが。

どのようなきっかけがあったのか、想像するしかありませんが、そばにあるだけではただの木であったものが、名前を知り、特徴を言葉にすることで、子どもにとってより身近な存在に、あるいは、「僕の木」「私の木」というふうに愛着の対象になっているかもしれません。

三、自分の名前―保育園の場合

平成23年度に担当させて頂いた品川区立のとある保育園。

下駄箱に書かれた子どもの名前は、めずらしくも漢字表記。

園長:「反対もあったのですが、どうしてもしたくて・・・」

園長経験者の評価者:「子どもというのは、身近にあれば、外国語であろうが漢字であろうが、覚えるものです。」

ちなみに私の感想:漢字で名づけられた子どもの名前を本来の漢字で表記すると、平仮名で名づけられた子どもの名前の個性が光る! 

厳密には、漢字の名前の個性も光るわけですが、多くの漢字の中に平仮名があると、目立つのでした。

以上、とりとめもなく。こんな時もあります。