2012年08月の記事一覧

交際上のマナー

相手が自分にとって不利な・嫌な行動をとる時、「相手の嫌な部分を引き出している自分がいるのではないか」と考える、今日この頃です。つまり、人間交際を豊かにしていく上で、相手の嫌な部分を引き出さない立ち居振る舞いをする責任が、あるのではないのか、と。

○使われていない=自分が使える=占有できる=ある日所有に化ける(かも)

過去に、いくつかの国の方々と生活を共にしたことがあります。以下は、ある国の人と暮らした時のエピソード。

部屋は各自一部屋。キッチンは共有。使い方については、4人の居住者全員で相談の上、以下のように決定。

①お皿や鍋など、各自の所有物は、それぞれスペースを割り当てて収納。

②コンロやその周辺は共有スペース。

③コンロや流し台、テーブルなどは、使用後は各自で掃除。

④キッチンのフロアの掃除は、輪番制。

⑤ゴミを集積場へ持っていくことも、同じく輪番制。 

そして、和やかに新生活がスタート。のはずが、数日後、キッチンに行ってビックリ。

「共有スペース」のはずのコンロ周辺に、うず高く積まれたお皿や調味料の数々。

調味料は、いかにも○○料理的なものばかり。 

○○人学生に聞いてみると、「何か問題でも?」といった様子。

そう、彼らにとって、共有スペースとは、空いている=使える=事実上自分たちのものにできるスペースだったのです。

○相手のさらなる行動を招かない責任

そこで、改めて説明:「いやいや、ここは皆で使う場所だから、必要な時だけ使って、そうでない時は空けとくんだよ

○○人:「オ~、ソ~リ~」(たぶん分かっていない)

かくして共有スペースは、「占領」から速やかに「解放」されたのでした。その後、この問題は再発しませんでした。

トラブルはなるべく起こさない、起こってしまった時は、なるべく悪化させない(事態をエスカレートさせない)、そのために必要な行動をとる、それもすぐに―実はこれ、人であれ国であれ、関係の継続を前提とするならば、当然のマナーであると思うのです。

「恐怖を恐怖する」

少々興味深いデータに触れたので、紹介を兼ねて。出典は、こちら。 

○「危険な」飛行機の利用を控えたら、自動車事故が増えた

人には、「恋を恋する」傾向があるようですが、どうやら「恐怖を恐怖する」のも、避けがたい傾向のようです。

2001年に世界貿易センタービルで起きたテロ事件の発生から1年間ほど、アメリカでは、飛行機の利用が極端に減少しました。ハイジャックに遭うこと、テロに巻き込まれることを、人々が恐れた結果です。

飛行機の利用をやめるならば、他の交通手段を利用するしかありません。当然、車の利用量も増えることになります。 

さて、その結果何が起こったかというと、当たり前のようですが、自動車事故による死者数の増加でした。

その数、前年比で1,595人増。

これがどのような数字であるかというと。 

・貿易センタービル、ペンタゴン、それぞれへの攻撃を含む一連のテロの犠牲者数は、約3000人と言われています。ですので、1,595人というのは、その約半分。結構な規模です。

・犠牲者のうち、飛行機の乗客だけに限れば246人。なので、1,595人はその6倍。こう見ると、交通事故の死亡者数増の顕著さが際立ちます。

・同時多発テロの1週間後に起こった炭疽菌によるテロの犠牲者数は5名。ということは、1,595人はその319倍。テロの被害者よりはるかに多い…。

○飛行機と自動車の危険性―比べてみると…

この調査をしたドイツの心理学者さん、律儀に以下のような計算をしています。 

・1年間、毎月1回(つまり1年で12回)のフライトでハイジャックに遭って亡くなる確率=1 / 135,000

・1年間で、自動車事故で亡くなる確率=1 / 6,000

この確率をもとに考えると、自動車での移動よりも飛行機での移動のほうが安全だということになります。なので、飛行機を避けて自動車を選んだ行動は、かなり非合理的なものだったということになります。

○理屈に合わない恐怖に振り回される私たち

この行動を生んだきっかけは、著者曰く、「イメージ」。繰り返し放送される、事故の瞬間の映像、遺族のインタビュー、次に来るテロの恐怖を煽る報道などなど。これらによって、人々は、unreasoning fear 理屈に合わない恐怖(心)を抱いてしまった―そう、著者は言います。 

自動車事故の死亡者数の増加については、ほとんど誰も注目していないそうです。また、当事者である遺族も、この増加の事実、いわんやその背後関係についても、理解していないそうです(仕方のないことですが)。つまり、遺族は、愛する家族の命を奪ったのは、日常生活で起こりうる交通事故―残念ではあるが、現代社会に生きる上で受け入れなければならない、言わばコスト―であると考えているわけです。

しかし、著者によれば、実際は、彼らはそんな理由で亡くなったのではない。愛すべき家族の命を奪ったのは、比較的安全な飛行機を避けて自動車の利用に殺到した、人々の恐怖(心)である―ということになります。 

unreasoning fear 理屈に合わない・根拠定かならぬ恐怖が、新たな悲劇を生んでしまう…なんとも皮肉な現象です。

悪の存立条件

○悪徳の栄え

卑怯、卑劣、卑俗、臆病、偽善、酷薄、放縦、抑圧、画一、差別、残忍…と、「悪徳」に該当すると思われる言葉を思いつくままに書き起こしてみました。

さて、こういった悪徳が世に蔓延してしまう条件とは、一体どんなものでしょうか。18世紀の英国で活躍した政治家、エドマンド・バークは言います。

All that is required for evil to triumph is that good men do nothing.

カチコチの訳:悪が勝利をおさめるために必要なことの全ては、善人が何もしないことである。

思い切って言い直すと:悪が勝利をおさめるには、善人が何もしない、ただそれだけでよい。

つまり、悪が蔓延するのは、それを積極的に推進するものがあるから、というわけではない。むしろ、制するものがないという意味で助長する環境がありさえすれば、いとも簡単に蔓延してしまうわけです。

○居場所を与えられない「美徳」という「価値」

さて、いじめです。

加害者家族や学校、教育委員会などの責任、加害者の矯正など、原因や今後の対応をめぐる様々な議論が行われています。またおそらく学校では、「命の大切さ」が改めて説かれていることでしょう。

不思議に思うのは、悪徳に対する美徳、例えば、勇敢であること、公正を重んじること、気高いこと、寛容であることなどといった、追求すべき価値に関する言葉が、全くと言ってよいほど聞こえてこないことです。

そういった価値に照らし合わせて考えると、弱いものをいじめるのは卑怯であり、それを見過ごすのは臆病であり、また、自己保身であり、そういった現状を尻目に綺麗ごとを説くのは偽善である―と言えます。

通り一遍の対応では、おそらく何も変わらないでしょう。制度いじりも同様です。結局のところ、追求すべき価値が、日常において明確な地位を与えられていない現状では、悪徳は蔓延したまま、その猛威はとどまることを知らないでしょう。

環境問題

○私の環境、環境としての私

スペインの哲学者ホセ・オルテガ。『大衆の反逆』が有名ですが、その他にもたくさんのエッセイ(試論)を残してくれています。そのひとつである『ドン・キホーテをめぐる省察』の中で、彼は言います。

「私とは、私自身と私の環境である。もし私が私の環境を救わないなら、私自身を救わないことになる。」

「私とは、私自身と私の環境である」ならば、他者との関係では、私とは、他者にとっての環境=他者の一部であるということになります。

「迷惑をかけなければ何をしてもよい」などという自己決定論を振りかざしていた社会学者がいましたが(今もいる模様)、オルテガの言葉は、私たちが、他者の生に対して責任を負っていることを教えてくれます。

○環境に育まれる私

「生命の援助」という確固たる教育理念に基づく園や、実践が徹底的に「子どもの視点」「子どもに対する信頼」に貫かれた園では、見事なまでに環境が整えられています。物的にも、人的にも、哲学―信念の体系―と言ってよいほどの考え方に貫かれているという意味で、秩序があります。そして、前者では、「お仕事」に集中し、自立に向けて様々な能力を獲得し成長していく子どもの姿があり、後者では、活発な園庭遊びが行われながら、病院にかかる怪我が1年以上発生していないという驚くべき状況があります。

「私(子ども)の環境」を整えることが、「私(子ども)自身(の内面)を整えること」につながっていることがよく分かります。