第三者評価機関にほんの福祉ネットのブログ

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環境問題

○私の環境、環境としての私

スペインの哲学者ホセ・オルテガ。『大衆の反逆』が有名ですが、その他にもたくさんのエッセイ(試論)を残してくれています。そのひとつである『ドン・キホーテをめぐる省察』の中で、彼は言います。

「私とは、私自身と私の環境である。もし私が私の環境を救わないなら、私自身を救わないことになる。」

「私とは、私自身と私の環境である」ならば、他者との関係では、私とは、他者にとっての環境=他者の一部であるということになります。

「迷惑をかけなければ何をしてもよい」などという自己決定論を振りかざしていた社会学者がいましたが(今もいる模様)、オルテガの言葉は、私たちが、他者の生に対して責任を負っていることを教えてくれます。

○環境に育まれる私

「生命の援助」という確固たる教育理念に基づく園や、実践が徹底的に「子どもの視点」「子どもに対する信頼」に貫かれた園では、見事なまでに環境が整えられています。物的にも、人的にも、哲学―信念の体系―と言ってよいほどの考え方に貫かれているという意味で、秩序があります。そして、前者では、「お仕事」に集中し、自立に向けて様々な能力を獲得し成長していく子どもの姿があり、後者では、活発な園庭遊びが行われながら、病院にかかる怪我が1年以上発生していないという驚くべき状況があります。

「私(子ども)の環境」を整えることが、「私(子ども)自身(の内面)を整えること」につながっていることがよく分かります。

Keep calm and carry on

○ワクワクしない

オリンピックの開催を前に、イギリスでは盛り上がりを見せているそうです。

そこで思い出されるのが、もう随分昔のことになりますが、どこかの国でオリンピックが開催される際のテレビ番組でのやり取り。

アナウンサー:「いや~ワクワクしますね~」

所ジョージ:「オレは選手じゃないからワクワクしないよ」

○落ち着ついて…

戦争中には、国威発揚、士気の鼓舞のために、勇ましいスローガンが叫ばれます。

例えば、第二次大戦中であれば、日本では、「撃ちてし止まむ」あるいは「欲しがりません、勝つまでは」などなど。ドイツでは、「嵐を巻き起すのだ」などなど。アメリカでは、「パールハーバーを忘れるな」などなど。各国とも様々なスローガンを掲載したポスターを街中に貼りまくります。団結するために。

さて、そんな中にあって、イギリス。いったい、かの国ではどんなスローガンが踊っていたのかというと…

Keep calm and carry on(落ち着いて行動しましょう)。

一見盛り上がっているように見えるイギリスですが、おそらくその中心はロンドンで、地方都市では、いつも通りの落ち着いた日常が展開されているのでしょう。ロンドンでも、郊外であればそうかもしれません。

何があっても動じない、はしゃがない、浮き足立たない、平静を保つことができる、泰然自若としていられる、そんな落ち着いた大人らしい態度。見習いたいものです。

発想の転換

子どもがいたずらをしているのを目にし、思わず「こらっ」「ダメッ」と言ってしまう気持ち…なんとなく理解できます。 

ところが、こんな人も(我が友人です)。 

「どうしてもイラっとしちゃったりすることもあって、でもそのときにシャッターを押したりすると、気持ちも落ち着くし、むしろすっきりするっていうか。」 

怒る気持ちを抑えて写真を撮る→いたずら写真が成長の記録に化ける 

お見事!

「声は人なり」

「文は人なり」と言われる通り、文章には、その書き手の人となりが表れます。 

最近ふと思ったのが、標記の「声は人なり」。 

新規のお客様と初めてコンタクトを取る際、まずは電話でのやり取りから始まるわけですが、つい先日も電話でお話しさせて頂いた際、「穏やかなお人柄がうかがえるようなお声だなあ」と感じました。そして実際にお目にかかり、お話しさせて頂き、納得。 

書き言葉であれ、話し言葉であれ、言葉選びやトーンにも、カドのあるものもあれば、丸みを帯びたもの、柔らかなものまで、様々です。それらは、実によく、その書き手や話し手の内面を表します。 

さて、どうしたものでしょうか。

形(外面)を整えることで、内容(内面)が整えられることもあります。例えば私の場合、方言で話すと、リラックスできると同時に、態度がルーズにもなります。反対に、標準語で話すと、シャキッとします。ただこれは、そもそも内面が外面に依存しすぎている、内面がさほど強固には律されていない、ということかもしれません。 

良き文、良き声への道。やはり内面の豊かさや強さ抜きには、たどり着けないのかもしれません。

数字にご用心

よく知られていることですが、アンケートなど各種調査の集計結果をグラフで表示する際(特に過去数年のデータを比較する時など)、メモリのとり方によって、変動の幅が大きく見えたり、小さく見えたりと、印象がずいぶん変わってきます。

何かを数字で表すことは、その何かを理解する際の助けにもなり得ますが、あくまでも全体像ではなく、一側面しか捉えきれません。また、その数字自体も、目的に応じていかようにも「見せる」ことが出来きます。従って、その取り扱いには、慎重さを要します。
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さて、こちらの記事。一部引用します。

 そんな能天気な高齢出産ブームとは裏腹に、日本産婦人科医会からは驚くべきデータが発表されている。胎児異常が理由とみられる中絶数が、10年前と比べて倍増しているというのだ。しかも、ダウン症に限ってみれば3倍近くにもなっている。
 このデータは、横浜市大先天異常モニタリングセンター(センター長=平原史樹・同大教授)が日本産婦人科医会所属の約330施設を対象に調査したもの。無脳症(脳と頭蓋骨の大半が欠けた状態)や水頭症(髄液がたまり脳室が大きくなる病気)、ダウン症といった胎児異常が理由とされる中絶の総数は、85~89年で約5400件だったが、00〜09年には約1万1800件に増加している。ダウン症は最も増加率が高く、370件から1100件に増えていた。

!?

(前略)胎児異常が理由とみられる中絶数が、10年前と比べて倍増しているというのだ。(中略)胎児異常が理由とされる中絶の総数は、85~89年で約5400件だったが、00〜09年には約1万1800件に増加している。

そう、85~89年が5年間、00~09年が10年間。期間が倍なら、総数も2倍近くになるでしょう。注意を喚起するという記事の趣旨自体はある程度分かりますが、そもそもこのような「データ」を「このように」公表するあたり、マスコミだけでなく研究機関の劣化も、相当進んでいるのかもしれません。

「絵の本質は額縁にある」

○制服と個性

たしか私が中学生の頃、「制服は人権侵害だ」と国連にまで訴えに行った日本人学生がニュースになっていました。そんな学生の主張に対し、応対した方の返答がふるっています。曰く、「着る服があるなんて幸せなことじゃないか」

これはとても極端な例ですが、「制服は個性の否定だ」と考える人、まだいるのでしょうか。

確かに制服は、一定のルールを皆に課すという意味で、少々抑制的な面はあるかもしれません。

ちなみに私の場合、小中高とずっと制服着用でした。小学校は良いとして、高校の時はブレザー、これもまあ悪くありません。嫌だったのが、中学校時代の学ラン。田舎育ちの少年、思春期には異性の目を意識し始め、そしてオシャレに目覚める。しかし、身にまとっているのは学ラン。どうあがいても学ランは学ラン。ダサいことを理由に、制服を呪ったものです。

ところが、オシャレな人というのはいるもので。私服でもオシャレだった我が友人は、制服であっても、どことなくセンスを感じさせる着こなしでした。本当にセンスのある人というのは、制約があったとしても十分にその個性がにじみ出ます。

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○制限と自由

センスや「らしさ」、個性などがその魅力を十分に発揮するための条件とは、いったい何なのでしょうか。19世紀後半から20世紀前半のイギリスを生きたある批評家は言います。 

芸術とは限定である。絵の本質は額縁にある。キリンを描く時は、ぜひとも首を長く描かねばならぬ。もし勇気ある芸術家の特権を行使して、首の短いキリンを描くのは自由だと主張するならば、つまりはキリンを描く自由がないことを発見するだろう。

―G.K.チェスタトン、安西徹雄訳『正統とはなにか』春秋社、1995年、62頁

額縁=外枠=制限こそが、絵を絵たらしめる。「キリンの首は長い」という事実=キリンを描く上での制約こそが、キリンを描くことを可能にする。つまり、一定の制限・制約こそが、自由の行使を可能にしてくれる、ということが分かります。

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公立認可保育園が話題になる際、残念ながら、「公立だから…」という言葉を時々耳にします。「どこも一緒」「やりたいことが出来なくて、先生方は気の毒」…。

色々と制約があって大変なのはある程度事実でしょうが、これまでに、個性を遺憾なく発揮しているたくさんの公立認可保育園に出会ってきました。あの区の、あの園やあの園長先生などなど。今後随時、可能な範囲で紹介していきたいと思います。

「待つわ」

昔振られた異性から「もう一度会いたい」と言われたら、どうしますか。

家庭がある方なら、問答無用でNoでしょう。どうかそうであって下さい。

独り身の人間であれば、若干の逡巡があるかないか、ないかな、いや、場合によるか、、、いや、でも、、、と、こういうふうに悩むことをふつう「逡巡する」と言うのかと、今気づく私。

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評価のご依頼を頂く際には、お問い合わせ、見積もり作成や資料送付のご依頼など、いくつかの段階があります。中でも、「では、お話を聞かせて下さい」と言われると、喜んで事業者様のところにお伺いいたします。ありがたいことに、これまでのところそういったケースでは、おおむね、正式なご依頼を頂いています。

とはいえ、やはり「振られてしまう」場合もあります。そんな時は、「どこがダメでしたか」などと、そんな野暮なことはお聞きしません。「縁がなかったんだ…」と、気分を切り替えます。引きずりません。仕事ですから。

つい先日、昨年度振られた事業者様から、お問い合わせ+正式なご依頼を頂きました。本当にありがたく思います。お問い合わせを頂いた後にお伺いした際、事業者様は「来てくれないかと思った(笑)」と仰いました。何の逡巡もありません。仕事ですから。

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というわけで、以前お問い合わせ頂いてそれっきりになってしまった事業者の皆様、「もう一度会いたい」と言われれば、どこまでも飛んでいきます。再度のお問い合わせ、お待ちしております

以上、またまた営業活動でした。

ご利用は適正に

当社の代表は、以前、「良く生きる」がモットーの某企業で法務コンプライアンスを担当しておりました。その代表氏、個人情報保護がテーマの研修では、「大事なのは利用と保護のバランスです」と常々申しております。わたくしなりに、その趣旨を噛み砕いてみたいと思います。

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ずいぶん前の話になりますが、防衛大臣に任命されたある政治家が、「私は安全保障の素人だが、これが本当のシビリアンコントロールだ」と発言し、少々騒がれました。

この発言自体は、ほとんど論ずる気を起こさせません。ただ、発言をめぐる弁明・擁護・批判に触れるにつけ、「『コントロール』の意味を分かってくれ~」との感を強くしたものです。というのも…。

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防衛力というのは、適切な利用を可能にしておくこと=不適切な利用を禁じておくことが、大切です。いざという時には適切に行使しうるようにしておくと同時に、「いざという時」以外は行使できないようにしておく。つまり、行使・不行使の判断が、ルールに基づく適切なものであること。さらに、行使する場合も、ルールに則って行われるということ…というふうに、実際に用いる場合でも、用いない場合でも、常にルール基づく(文民の)政治家の判断の下にある、ということが大切なのです。

防衛の話に抵抗感があれば、乗馬の場合で考えてみましょう。馬に乗る際は、馬のお尻をペンペン叩いて走らせると同時に、手綱を引いて「ど~ど~」などといいながらスピードを緩めたり止めたりします(たぶん。表現が稚拙ですみません)。馬は、乗る以上は走らせないとお話になりませんし、必要な時にはいつでも止められる状態にしておかないと、安心して走らせることも出来ません。

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control(コントロール)が意味するところ、「支配」や「統制」ばかりではありません。「監督」や「制御」、「自制」、traffic control(トラフィック・コントロール)に至っては「交通整理」です。これが「交通統制」だと、なんだか走ってはいけないような印象を受けます。スムーズな交通を目的とした制御―それが、「交通整理」です。

日本語にも「御(ぎょ)する」という言葉があります。その意味は、(1)馬を自由に操る、(2)人を思いのままに動かす、(3)治める。(1)馬をぎこちなく走らせる、(2)人の一挙手一投足に至るまで指図する…わけではありません。ましてや、(3)生活を統制して自由を抑圧することではありません。節度ある自由のために管理がある、それが治めることであり、統治なのでしょう。

結局、コントロール下に置く=御するという行為には、必要に応じて適切に制御しつつ、何かを上手く(巧く・伸び伸びと・適切に)使うということが含意されているわけです。

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個人情報も、おそらく、利用と保護の上に、適切な管理があるのでしょう。節度なき利用は保護を危うくし、際限なき保護は利用を阻みます(=業務を滞らせます)。利用と保護とのバランスを図る=適正な利用と厳格な保護とを実現する、適切な管理こそが求められるわけです。

お声がけ頂ければ

都の評価推進機構から認証を受けている私どもにとって、評価という仕事の舞台は、都内全域です。評価事業=多くの事業者様とのご縁を通じて、様々な土地に初めてお伺いする、という貴重な経験をさせて頂くこと、たびたびです。
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さて、インターネット上には様々な情報が溢れていますが、時々、素敵な記事や特集に出会うことがあります。 

例えば、ある新聞社のホームページ内に設けられた「奥多摩だより」という一コーナー。ここには、奥多摩町やあきる野市、青梅市、檜原(ひのはら)村など、奥多摩地域の美しい風景を収めた写真が沢山掲載されています。

都内にもこのような奇跡のような空間が保たれているんですね。そこで生活する方々の穏やかな人柄、豊かな人間性を、勝手に想像しています。

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ん~、なんとか、評価のいう仕事が、私を奥多摩に連れて行ってはくれないものでしょうか。

というわけで、奥多摩の事業者の皆さ~ん、お声がけお待ちしております! 

以上、営業活動でした。

心を掃除する

助言、指導、注意、エトセトラエトセトラ。これらが人の心に届くには、一つには言い方(表現方法)、もう一つには受け手の心理が鍵となります。今日は、組織内で助言、指導、注意などを受ける立場の方々へのお話。

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①まずは、 シェイクスピア作品の翻訳で名高いある劇作家の言葉を。

子どもというのは、一般に、『自分はもう子どもではない』と言う時、もっとも子どもらしさを発揮するものです」

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②次に、何かのイベントで日本人の学者・評論家数人がヨーロッパに講演旅行に行った時のお話。講演を聴くのは、ヨーロッパの政治家やジャーナリストたち。

A(ドイツ文学者)は、ヨーロッパ批判を延々と展開。

B(思想家)は、ヨーロッパの思想・哲学の歴史への敬意を表明。

C(現在政治家)は、Aを「ナショナリスティック」、Bを「西欧コンプレックス」と批判。

そこでB、ヨーロッパ人の聴衆に向かって一言。

「ところで皆さん、コンプレックスを公にすることは、果たして、コンプレックスと言えるのでしょうか

ニヤリとする聴衆。

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①は、「一人前でありたい」という希望=「成熟していない」という現状が、露わになる瞬間です。私も言った憶えがあります。幼かった~。

②はいかがでしょうか。劣等感を抑え続けること自体が、劣等感の発露そのものということでしょうか。反対に、劣等感を自覚し、公にすると、②の体験者の言葉を借りれば、「偏狭な自己から解放される」わけです。なるほど。

精神・心理の面からの分析もあると思いますが、ここでは言葉の動きに着目して整理してみます。 

・未熟な部分や劣等感を隠す=内面を閉ざす=コミュニケーションの経路が遮断される=他者の言葉が入ってこなくなる=言葉が循環しなくなる=コミュニケーションが行われなくなる=自己の殻に閉じこもる

・未熟な部分や劣等感を公にする=内面を外に出す=コミュニケーションの経路が準備される=他者の言葉が入ってくる=言葉が循環する=コミュニケーションが行われる=自己が外に対して常に開かれる

精神の引きこもりは、自己を窒息させます。他者の言葉という新鮮な空気が還流することで、ゴミ同然の妙なプライドはきれいに掃除されます。